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長編インタビュー |家にも学校にも居場所がなかった。昔の自分に、今「大丈夫だよ、すべての出来事はポジティブに変わる」と言ってあげたい。|板津ゆかのライフヒストリー

インタビューを受ける板津ゆか
 大学院での歴史·考古学研究や南米の博物館での勤務から、国内外の大手金融機関や外資系IT企業での経験、そして前回統一地方選での県議会議員選挙への初挑戦と、板津ゆかの経歴は「博識」「華やか」「多才」と評されることがある。
 しかし、LGBTQ+当事者として生きてきた苦悩、「早く人生が終わればいいのに」とまで思っていた思春期の絶望など、板津ゆかが政治家になって社会を変えて「救いたい」と思う人々への想い、その基礎となった経験は今まであまり語られてこなかった。
 このロングインタビューでは、板津ゆかの政治観、社会観を知らせる上で、その根本となったこれまでの35年間の人生を詳細まで掘り起こし、徹底的に語ったものを収録した。

幼稚園の頃から制服のスカートは着たくなかった

ーー板津さん、今日はよろしくお願いします。まずは、生まれてからのお話を聞かせてください。
 板津ゆかです。1988年、昭和63年生まれで今年(2024年)の5月に36歳になりました。生まれたのは愛知県名古屋市です。
 父は市役所に勤務していた元地方公務員、母は専業主婦。私の上に兄と姉がいて、私は3兄妹の末っ子でした。
 私は、社会的トランスジェンダーであった時期がありましたが、現在は自分のことを女性と認識していて、恋愛対象の性別は特に関係ありません。いわゆるLGBTQ+です。
 小さい頃からセクシャリティ(性自認)のことで「自分はまわりとは違う」と思っていました。
 自分ではあまり覚えていないのですが、1歳の頃からドレスみたいな女の子の服を着るのが嫌で、タキシードが着たい、と言っていたそうです。
 一番古い記憶で覚えているのは、幼稚園のスカート。とにかく嫌で、「なんでズボンじゃないんだろう?」と思っていたことを覚えています。
 今思えば、自分はいわゆる「社会的トランスジェンダー」だったのだな、と思います。
 地元の私立幼稚園に行っていたのですが、サッカーをしたり、銃とかバイクのおもちゃとか、男の子と一緒に遊ぶことが多かったですね。

幼少期の板津ゆか。3人兄姉の末っ子として育った。

家にも学校にも居場所がなかった幼少期。あの頃の自分に「大丈夫だよ、すべての出来事はポジティブに変わる」と声をかけてあげたい

ーー制服のこともあって幼稚園に行くのが嫌だったということでしたが、小学校以降はどのようなこども時代を過ごしたのでしょうか?
 実は小学生の頃から、家庭の事情もあって私は家に居場所を感じられなくなってしまっていました。
 小学校にはあまり楽しい思い出はないです。無理やり行かされているような毎日で、行っても保健室に登校することもたびたびありました。
 当時、ランドセルは女の子は赤色、男の子は黒色、というのが定番で、私も入学当時に買ってもらったのは赤いランドセルでしたが、男の子と同じ黒色がいいと言って、赤いランドセルはほとんど使わずに、兄の使い古した黒いランドセルを背負って登校するようになっていました。
 体操服も当時は女の子はブルマでしたが、私はどうしてもブルマが嫌で、小学校4年生のときに男の子と同じズボンを履くようになりました。
 小学校の先生たちも配慮はしてくれたのですが、一番大変だったのは、着替えるときの更衣室。あとプールの授業での水着でした。もし、今みたいにラッシュガードを着ることが許されていたなら違っていたかもと思います。
 結局、女の子と同じ更衣室に黒いランドセルで入ることに抵抗があり、小学校では運動部への入部はあきらめました。本当はバスケとかソフトボールとかやりたかったのを覚えています。
 更衣室の前に立ち、「男」と「女」に分かれている入口をじっと見つめていました。自分は男女のどちらにも分類することのできない「まるでキメラのようだ」と感じていました。

小学生の頃の板津ゆか。サッカーやバスケなどのスポーツが大好きなのはこの頃からだという。

 あれから30年くらい経ちましたが、朝に駅前で街頭演説をしているとき、スラックスの制服を履いて登下校している女の子の学生をみると「本当によかったね!」と涙が出そうになります。ちょっとはいい時代になったのかな、と。
 それでも逆に「スカートを履きたくても履けない」ことで苦しんでいる子もいるので、みんなが自分の着たい服を着れるような世の中になるといいなと思います。
 あと、当時は今よりも痴漢や盗撮の被害も酷くて、私もスカートを履いているときに痴漢の被害にあってスカートを履くのが嫌になったということがありました。
 痴漢被害は一時期毎日のように繰り返されていて、そのせいで本当に苦しくて、女に生まれただけでなんでこんなに生きるのが怖く、苦しいのだろうと悩んだ時期もありました。

社会の「異物」だと感じていた私の手を引いて、音楽室に連れて行ってくれた友達のことは今でも忘れられない

 学校は不登校ではないけど、毎日「行きたくない」「行きなさい」「嫌だ、行きたくない」と親と言い争うような状態でした。
小学生のころから「生きる」ということには絶望していて、社会から「異物」として見られているという感覚が常にありました。
 パソコンで自分のセクシュアリティに関することを検索すると、否定的なことがたくさん書かれていて、「同性愛者は将来まともな仕事にも就けない」と思わされていました。

インタビューは2023年12月、宇都宮市内のレンタルスペースにて行われた。


 その後、17歳でピースボートのポスターを見かけて「世界を自分の足で踏み、自分の肌で感じ、自分の目で見てみたい」と夢見るようになるのですが、そのときまでは毎日「生きていてもしょうがない」「事故にあって死にたい」と思っているような毎日でした。
 それでもいくつか楽しい思い出があって、そのうちの一つは、小学校5年生の頃、同級生の女の子の友達に吹奏楽部に誘ってもらったことです。
 その子に手を引かれて階段を駆け上り、3階の一番奥にある音楽室まで一緒に連れていってくれたことを今でも覚えています。

深夜のコンビニ。偶然目に飛び込んできた「ピースボート」のポスターがその後の人生を変えた

 小学生のころからそんな状態で、自己肯定感が極端に低い状態でした。
 中学校もスカートの制服を履くのが嫌で行きたくなかったのですが、「社会の異物だ」と思われることが怖かったため、スカートを履く覚悟を決めて、割り切って学校に通うようになりました。学校が終わると家に帰らずに公園に行って、暗くなってもひとりぼっちでベンチに座っていることもありました。あのひんやりとしたベンチの冷たさは今でも忘れられないですね。


 高校は母親が勧めてくれた愛知県内の公立高校。中学校でもろくに勉強などしていなかったので、言われるがままに受けた高校に入学しました。
ある日、いつものように上下真っ黒のスウェットにキティちゃんのサンダルという格好で深夜の街を徘徊して、コンビニに立ち寄った際のことでした。
 そこでぱっと目に入ったのが、ピースボートのポスター。見た瞬間「これだ!」と衝撃を受けたのを覚えています。当時私は高校2年生、17歳でした。
 乗船するのに約150万円。このポスターを見たときから、初めて目標に向かって生きる、働く、勉強する、という経験をすることになりました。

ピースボートの旅で目にしたペルーのマチュピチュ遺跡


──ピースボートに乗船されたのはいつでしょうか?
 大学生のときです。ピースボートに乗ると決めたときに将来設計も考えたんです。戻ってくる場所を確保しておかないとと思って。だから、大学に進学したあと休学してピースボートに乗ろうと。
 進学先は、昔から博物館とか美術館が好きだったので、地元の大学の歴史学科にしました。AO入試で受験したのですが、面接官の先生と喧嘩しちゃったんです(笑)「ピースボートで世界一周して、その結果を歴史学科で研究します」と言ったら、「そんな夢みたいなふざけたこと」と返されて。それから言い合いになって怒って帰ってきちゃったけど、合格してました(笑)その先生とはのちに仲良くなって、色々私のことを気にかけてくれましたよ。
 高校から大学までバイトばかりの生活をしてました。ボランティア活動をすると乗船金額が割引になるので、カンボジアの地雷原の方々を救うための募金活動をしたりもしていました。それでも結局資金はたまらず、借金をしてピースボートに乗ることになりました。2007年の9月から4ヶ月間、19歳の頃ですね。

──ピースボートに乗って印象的だった出来事はありますか?
 最高だったのは、180度海しかない場所で、その上に満天の星空が広がっていた光景ですね。太平洋だと思うのですが、船頭のデッキでみんなで並んで横になって見たのを覚えています。あそこでしか見れない景色ですよね。
 逆の意味でよく覚えているのは、紛争地を訪れたことです。ピースボートには地球大学といって、船の上で戦争と平和について学ぶ講座があるんです。泥の上に立てた掘っ立て小屋で生活している村や難民キャンプをこの目で見てみて、戦争や紛争が起こったときにこうなるんだって感じました。

世界中で見てきた美しい光景、また悲惨な光景。守るべきものを後世に伝えたい

 船を降りて大学に復学すると、博物学や考古学を勉強して大学の先生になりたいなと思うようになりました。
 ピースボートに乗って、世界中の美しい光景と悲惨な光景を見てきて、守り伝えていくべきものを子どもたちに残していきたいって思ったんです。
 ただ、借金を返さなくてはいけなかったので大変でした。ピースボートのあともバックパッカーで色々な国に行っていたので、勉強とバイト三昧です。
 そして学芸員資格をとった頃、大学の先生の紹介でペルーの博物館に住み込みで働けることになったんです。朝にスペイン語の語学学校に通って、そのあと10時から夕方6時まで博物館で働きました。給料はないのでチップで生活してました(笑)
 日本に戻ってきたのは2012年で、大学院に進学しました。そのあと就職しようと思っていたのですが、2013年にイスラム国が遺跡を壊すニュースを見たんです。そのときに、世界を変えて戦争をなくさないといけないと思ったんです。
 だから博物館への就職ではない、政治家になる、と決意しました。研究の道は大学院卒業で辞めて、一般企業に就職することにしました。

男性に負けたくない 政治家になりたい 私の原動力となった強い決意

──どんな会社でどんな働き方をしていたのでしょうか?
 そのときも将来設計をしたんです。政治家になるにはいつまでに何をしなければいけないか。政治家になるなら法律と経済をしっかり身につけなきゃいけない、そして会社経営者が会社を辞めて議員になるケースが多いので、私も経営者になろうと。
 そこでゴールから逆算して、金融業務と経済状況について知識と経験を積んで3年で独立しよう、というのが当初の目標でした。結局5、6年かかっちゃいましたけど(笑)
 最初は証券会社に就職して、そのあと銀行へ。金融機関の人は副業禁止だったので、IT企業に転職して、そこで働きながら会社を立ち上げました。一社にいた時間がとても短いんですよ。だから私の履歴書を見た泉元代表とかも「短すぎない!?」と笑ってましたね。
 その頃は、4時に起きて経済ニュースを調べて、7時に出社、夕方まで働いたあと、行政書士の予備校で23時くらいまで勉強、帰宅後にまた仕事をして、就寝は25時過ぎでした。土日も予備校で一日中勉強っていうのが基本。IT企業にいたときは夜中に他国とウェブ会議もありましたね。25歳から34歳まではそんな働き方でした。

──すごい体力ですね。どうしてそこまでできたのでしょうか?
 というのも、社会人一年目のときに「男女雇用機会均等法」の成立のために尽力された赤松良子元文部大臣が創設した「赤松政経塾」に通い始めたんです。そこで、ジェンダー平等、女性の社会進出を達成しなければならない、私が先人たちを引き継いで頑張るんだと強い決意をしていたからなんです。

元文科大臣で、赤松政経塾を主宰されていた赤松良子さんと。赤松さんとの思い出は板津ゆかもショート動画で語っている。


 あと、女性初の執行役員になったという方に聞いたことがありました。どうしてあなたはトップになれたんですか?って。そのときに「3倍働くこと。男の3倍働いて、やっと一人前と認められる」と言われたんです。だから人の3倍働き続けて、学び続けました。
 ですが、さすがに身体に限界がきてしまいました。

立ち止まることで見えたこと、分かったこと。政治家とは

 私が自分の会社を立ち上げた直後に、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めたのです。新規のビジネスはもちろん、既存のビジネスにも大打撃でした。非常に苦しい時期で、この頃から徐々に体調がおかしくなっていきました。
 最初は目がかすむぐらいだったのですが、そのあと文字が読めず文章が理解できなくなり、やがて起き上がることができなくなってしまいました。何もできず涙をながすだけの日々は本当に地獄で、「周囲に迷惑をかけるぐらいなら」と、命を絶つことも考えました。


──大変な状態だったのですね。どうやって乗り越えることができたのでしょうか?
 まずは大切な人たちの存在ですね。命を絶つことを考えたとき、あの人たちを悲しませてはいけない、と現実に戻ることができました。そして環境を変えるしかないと思い、東京を離れ、栃木へ移住しました。
 その選択は大正解でした。栃木の自然は雄大で、農作物も美味しい。そして何よりも栃木のみなさんの温かさです。よその土地からきた私に本当に優しくしてくださって、どうしてこんな優しい人ばかりなんだろうと(笑)栃木の自然とみなさんのおかげで、私の体調もみるみる回復していきました。
 
──そこから学んだこともあったのでしょうか?
 苦しんでいる方々に必要なケアとは何か、という視点をよりリアルに感じられたことですね。幼少期の体験や、ピースボートで訪れた紛争地域にも通じることだと思いますが、政治において最も大事なことの一つは、弱者へのケアです。心身ともに弱りきっていたときの経験は、私に改めて政治とは何か、政治家とは何をしなければいけないのかを考える機会を与えてくれたと思っています。

──政治家として、今一番訴えたいことはなんですか?
 2023年の栃木県議会選挙で初めての立候補をしました。たくさんの方々から支援を受けましたが、残念ながら期待に応えることができませんでした。ですが、そのとき多くの方から激励の言葉をいただき、この大好きな栃木から日本の政治を変えていきたい、救いを求めている人々を助けてあげたい、その想いは一層強くなりました。


 特に、日本では自己肯定感がすごく低い女性が多いことが問題だと思っています。昔の自分に対して言うように、私は今、日本の、栃木の女性たちに言いたいです。「あなたには力があるんだよ」「諦めなくてもいいんだよ」「人生は生きるに値するよ」だから、自分らしく生きられる社会を一緒につくっていこうよ、って。(了)

板津ゆか プロフィール
▪️生年月日:1988年5月11日(おうし座)
▪️出身地:愛知県名古屋市
▪️居住地:栃木県宇都宮市
▪️資格:AFP(日本FP協会認定ファイナンシャル・プランナー)、宅地建物取引士、行政書士(未登録)、金融コンプライアンス・オフィサー、学芸員、高等学校教員免許(政治、経済、歴史、地理)など
▪️趣味:読書、芸術・映画鑑賞、乗馬、旅行、バスケットボール、愛犬とのSUP
▪️好きな本:「LEAN IN」
▪️好きなアニメ・漫画:「進撃の巨人」「鬼滅の刃」「スパイファミリー」「キングダム」
▪️好きな映画:「Avator(アバター)」
▪️好きな歌手:「Rickie-G」「Jack Johnson」「平井大」

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